裏窓さんのご意見です。

(1)裁判所判例のリンクは岡口裁判官の責任ではないことは明らか (2)「無残にも」の「にも」という表現を遺族が揶揄と受け取ったのは自明なのに、なぜ誰もこの表現について掘り下げて議論しようとしないのか。本来はニュートラルな表現(ただ、負のニュアンスも含ませやすい。注意が必要な表現)(3)洗脳「ある人の主義・主張や考え方を根本的に変えさせること」(大辞林)の定義に沿えば、意見ないし論評の域をでない。ただ、遺族の岡口裁判官に向けられた批判(1と2)は、裁判所やメディアの影響によるものではなく、はじめから遺族が主体的・内発的に持つ感情なのは明らか。岡口裁判官は遺族の感情と裁判所・メディアを結びつけずに、「謂れ無き批判である」と、遺族と裁判所それぞれに対し、明確に指摘・反論すればよかったのに。
法曹も含めた世論は、1-3を意識化・言語化せずに、ただ漠然とイメージだけを膨らませて、岡口裁判官への批判を展開しているようにみえる。 
岡口裁判官の表現の、どの点がどのように問題だというのか、結局は誰も具体的に指摘していない。(そして、複雑性悲嘆の状態にある遺族がやり場のない思いを本来向けるべき相手(加害者)ではない第三者に向ける構造も、誰も説明しない)