https://www.amazon.co.jp/-/dp/4000613316/
michiko
2019年3月30日
形式: 単行本
人は裁判官に何を求めるか。清廉さ、公明さ、真摯さ••••••いろいろあるだろうが、しかし、彼らもまた雑なことに悩み、悲しみ、怒る一人の人間であることがわかった。そういう意味で誤解を恐れずにいえば、裁判官とは、皇族に近いかもしれない。国民が皇族に求めるイメージというのは、多々あるだろうが、すべてがフラットで透明さも求める現代にあって、皇室の神性が薄れつつあるのも事実。それがさまざまな局面で表出しつつあるのは、昨今の皇室騒動をみればわかるだろう。岡口さんの白ブリーフ姿には正直引いてしまうが、象徴裁判官とでもいうべきものを、より実像に近づけるという意味では、この本の狙いは、ほぼ成功している。人間裁判官の訴えに、耳を傾けてほしい。

daddy the kid
形式: 単行本
岡口裁判官の名を知らない法律家はほとんどいないだろう。
司法研修所で「秘儀」のように教えられてきた民事要件事実論(各要件ごとの立証責任の振り分け)を集大成し出版した著書は、司法修習生の必携の書となっていた。
そして、岡口裁判官は、司法と裁判のあり方についてツイッターで発言する珍しい裁判官でもあった。私も、弁護士として、岡口さんのツイッターをフォローしてきた一人である。(その岡口裁判官のツイッターのアカウントが一方的にロックされ、現在は読めなくなっている。)
そのツイッターの中で、岡口裁判官は、政府に迎合した司法判断、たとえば原発の稼働を安易に認めるような判断を厳しく批判してきた。いわば、裁判官自らが「同僚としての批評」(ピア・レビュー)を展開してきたのである。このような言論活動は、司法判断を市民が検証する上で、有用であり、貴重な発信であった。多くの市民が、岡口裁判官のツイッターをフォローしてきたことそのものが、そのことを証明している。
その岡口裁判官が最高裁による分限裁判で「戒告」とされ、次には国会の訴追委員会からの喚問を受けるという事態となっている。裁判官として、さらには法律家として仕事を続けられるかどうかと言うところにまで、追い詰められているのである。
その渦中にある本人が、自らの置かれた状況をあくまで客観的に「自己批評」しようとして書かれたのが本書である。第1部が前史、第2部が分限裁判、第3部が「変貌する最高裁、揺らぐ裁判所」、第4部が「司法の民主的コントロールは可能か?」という構成となっている。
裁判官が、市民として、表現の自由をもっていることは当然である。この自由は裁判官の職責から一定の制限を受ける。たとえば、裁判官が自らが現在担当している事件について、裁判外で意見を述べるようなことは認められない。岡口裁判官のツイッターの中には、その職責と矛盾するようなものはない。
個人的には、後半の第3部、第4部があることにより、岡口裁判官のような自分の意見をはっきりと持ち、それを臆せず発信する裁判官が、今の司法の中でどんどん減っていて、だからこそ攻撃の対象とされているのだということが理解できる。
岡口裁判官は、第3部の冒頭で、最近の最高裁判例のいくつかを取り上げて、具体的に批判している。
NHK受信料判決、金沢市役所前広場事件、君が代再雇用拒否事件、マンション共用部分不当利得返還請求事件、ハマキョウレックス事件が取り上げられ、現在の最高裁の判断が、現場の裁判官の実務感覚と大きくずれて「王様化」しているのではないかと論じている。そして、その原因が最高裁の憲法判断の歴史、その仕事量、さらには裁判官の選任方法の変化に起因するのではないかと論じている。
さらに、民事事件の審理にあたる裁判官の能力が全般的に低下していること、それが裁判官養成の過程、とりわけ司法研修所教育の形骸化に原因しているのではないかとも述べている。
いずれも、裁判所の中にあって、日々裁判の実務を重ねながら思索を深めてきた裁判官でなければ論ずることのできない貴重な意見である。
今の日本の司法は、自らの官僚主義と、政府からの圧力によって、市民の人権を保障するという機能が劣化しているようにみえる。このような危機に立つ司法にとって、岡口裁判官は「坑道のカナリヤ」のような存在だ。
今後も、日本の司法の民主的コントロールのために、岡口裁判官が、裁判の営みを続けられること、そして、その仕事の中で感じた司法の問題点を発信し続けられることを願ってやまない。
司法研修所で「秘儀」のように教えられてきた民事要件事実論(各要件ごとの立証責任の振り分け)を集大成し出版した著書は、司法修習生の必携の書となっていた。
そして、岡口裁判官は、司法と裁判のあり方についてツイッターで発言する珍しい裁判官でもあった。私も、弁護士として、岡口さんのツイッターをフォローしてきた一人である。(その岡口裁判官のツイッターのアカウントが一方的にロックされ、現在は読めなくなっている。)
そのツイッターの中で、岡口裁判官は、政府に迎合した司法判断、たとえば原発の稼働を安易に認めるような判断を厳しく批判してきた。いわば、裁判官自らが「同僚としての批評」(ピア・レビュー)を展開してきたのである。このような言論活動は、司法判断を市民が検証する上で、有用であり、貴重な発信であった。多くの市民が、岡口裁判官のツイッターをフォローしてきたことそのものが、そのことを証明している。
その岡口裁判官が最高裁による分限裁判で「戒告」とされ、次には国会の訴追委員会からの喚問を受けるという事態となっている。裁判官として、さらには法律家として仕事を続けられるかどうかと言うところにまで、追い詰められているのである。
その渦中にある本人が、自らの置かれた状況をあくまで客観的に「自己批評」しようとして書かれたのが本書である。第1部が前史、第2部が分限裁判、第3部が「変貌する最高裁、揺らぐ裁判所」、第4部が「司法の民主的コントロールは可能か?」という構成となっている。
裁判官が、市民として、表現の自由をもっていることは当然である。この自由は裁判官の職責から一定の制限を受ける。たとえば、裁判官が自らが現在担当している事件について、裁判外で意見を述べるようなことは認められない。岡口裁判官のツイッターの中には、その職責と矛盾するようなものはない。
個人的には、後半の第3部、第4部があることにより、岡口裁判官のような自分の意見をはっきりと持ち、それを臆せず発信する裁判官が、今の司法の中でどんどん減っていて、だからこそ攻撃の対象とされているのだということが理解できる。
岡口裁判官は、第3部の冒頭で、最近の最高裁判例のいくつかを取り上げて、具体的に批判している。
NHK受信料判決、金沢市役所前広場事件、君が代再雇用拒否事件、マンション共用部分不当利得返還請求事件、ハマキョウレックス事件が取り上げられ、現在の最高裁の判断が、現場の裁判官の実務感覚と大きくずれて「王様化」しているのではないかと論じている。そして、その原因が最高裁の憲法判断の歴史、その仕事量、さらには裁判官の選任方法の変化に起因するのではないかと論じている。
さらに、民事事件の審理にあたる裁判官の能力が全般的に低下していること、それが裁判官養成の過程、とりわけ司法研修所教育の形骸化に原因しているのではないかとも述べている。
いずれも、裁判所の中にあって、日々裁判の実務を重ねながら思索を深めてきた裁判官でなければ論ずることのできない貴重な意見である。
今の日本の司法は、自らの官僚主義と、政府からの圧力によって、市民の人権を保障するという機能が劣化しているようにみえる。このような危機に立つ司法にとって、岡口裁判官は「坑道のカナリヤ」のような存在だ。
今後も、日本の司法の民主的コントロールのために、岡口裁判官が、裁判の営みを続けられること、そして、その仕事の中で感じた司法の問題点を発信し続けられることを願ってやまない。